英国の国民医療サービス(NHS)の腫瘍専門医で、オックスフォード市にあるエリソン研究所でメディカル・ディレクターを務めるレナード・リーは、自らのことを「単なる医者」と呼ぶ。だが、彼はそれ以上の功労者だ。
新型コロナウイルスによるパンデミックの最中、がん患者に化学療法を施すのは危険すぎるという懸念を払拭し、世界中でがん治療を続けられるように貢献した人物なのだ。リーは、臨床医主導でモニタリングを実施し、コロナで陽性反応がでたがん患者に化学療法を施しても、安全であると示した。また、英国でのラテラルフロー検査が、最も感染力の強いコロナ患者の特定に有効なことを示す研究成果も発表した。
しかし、リーにとって最も重要なプロジェクトは、政府顧問として現在主導している英国のmRNAがんワクチン開発計画だろう。この新型ワクチンには、BioNTech(ビオンテック)とモデルナが最初に開発した新型コロナウィルス用ワクチンと同じmRNA技術が使われている。がんとの闘いにおける突破口になりうるものとして、多くの人がこのワクチンに期待を寄せている。
リーは、3月18日(英国時間)にロンドンで開催される「WIRED Health」で講演する予定だ。同講演に先立ち、mRNAがんワクチンが、なぜ「パンデミックの光明」となりうるのか、『WIRED』に語った。インタビューは、長さとわかりやすさを考慮して編集されている。
──現在、世界中で何百ものmRNAがんワクチンの臨床試験が進行中です。新型コロナウィルスのmRNAワクチンの成功が、がんワクチン開発にどのような影響を与えたのでしょうか?
レナード・リー:パンデミック以前は、がんワクチンは期待が持てる研究分野とは言えませんでした。(成果が)無かったのです。ひとつの例外を除いて、ほとんどすべての臨床試験が失敗していました。ところが、パンデミックによって、mRNAワクチンの可能性が証明されました。
mRNAがんワクチンは、体に無害ながん関連のタンパク質をつくるように指示を与えます。この機能を使って、免疫系がタンパク質を持つがん細胞を見つけて、攻撃するように訓練します。警備員の訓練マニュアルのようなものだと思ってください。ワクチンは免疫系に、がんがどのようなものかを示し、ガイドします。それに従って、免疫系は誰を監視し、除去すべきかを正確に知ることができるのです。
コロナのmRNAワクチンから、がんmRNAワクチンへの応用は簡単です。同じ冷蔵庫(ワクチン向けの超低温のもの)、同じプロトコル(規格)、そして同じ薬剤が使われています。違うのは、対象となる患者だけです。
現在の臨床試験では、患者の生検を行って、組織の塩基配列を決めてから製薬会社に送ります。そして製薬会社が、その患者のがんに合わせた個別のワクチンを設計します。そのワクチンは、ほかの人には適しません。まるでSFのようですよね。
──英国のがんワクチンの臨床試験を迅速化するために、2022年末、あなたは「がんワクチン開発プロジェクト(CVLP)」を立ち上げました。新型コロナウイルスが世界的に大流行をした直後、なぜこのような野心的な開発計画を進めたのですか?
当時パンデミックは収束に向かっていました。オミクロン株は、以前の変異株よりもはるかに穏やかで、(その時期までには)誰もがワクチンを接種していました。コロナ・ワクチンの研究も終了しつつありました。そうなると、コロナのワクチン市場がいつまでも必要ではなくなるので、モデルナやBioNTechなどの企業は、次に何をすべきか検討を始めていました。そこで、彼らはmRNA技術を使ったがんワクチンに軸足を移したのです。そしてワクチン研究や製造実績のある国を探し始めました。
そんななか、英国は準備が整っていました。冷蔵庫もありましたし、世界トップクラスの製造・研究施設もありました。パンデミックの際には、臨床試験を迅速に開始し、実施できることを証明しました。また、英国は(保健・社会福祉省の管轄下に)Genomics Englandを設立して「10万人ゲノム(解析)プロジェクト」を始動させ、ゲノム分野で世界を主導していました。この国では、すべての医師と看護師がゲノミクスの教育を受けています。これは製薬業界にとって大きな指針となりました。
そこで、英国政府は2社と提携を締結しました。ひとつは、BioNTechとの提携です。2030年までに1万人の患者に個別化したがん治療の提供を目指しています。もうひとつは、モデルナ向けへの10年間の投資で、(年間)最大2億5,000万本のワクチンを製造できるイノベーション・テクノロジーセンターを建設することです。すべてがうまく行きました。
──英国ではコロナ禍、わずか数週間で臨床試験を開始しました。しかし、以前は臨床試験をし終えるまでに何年もかかっていましたた。なにが変わったのでしょうか?
本当に驚くべきことでした。長年、研究は本質的に時間がかかるものだと信じられていたからです。以前は新薬をひとつ市場に出すのに20年くらいかかっていました。残念なことに、ほとんどのがん患者は、薬が市場に出るまでに命を落としてしまっていました。わたしたちは、1年でそれを実現できることを世界に示せたのです。プロセスを近代化して、プロセスの一部を並行して実行して、デジタルツールを使用すればできるのです。
──もちろん、パンデミックの時に臨床試験を開始することと、がんの臨床試験をすることは、必ずしも同じわけには行かないでしょう。それなのに、あなたは早い段階でがんワクチン開発計画に突破口を開きました。
BioNTechが実施した「BNT122」と呼ばれる高リスクの大腸がん患者を対象とした臨床試験は実施されていました。しかし、世界中であまり参加者が集まりませんでした。そこで、わたしたちが「がんワクチン開発プロジェクト(CVLP)」を発表したとき、英国のがん患者コミュニティーは機会を利用しました。臨床試験はバーミンガム大学病院で始まりましたが、それはかなり予想外のことでした。なぜなら、この病院はトップレベルのがんワクチン研究拠点ではないからです。
この臨床試験に、1万人の患者を登録させる必要があったのですが、3カ月以内で集められました。驚くべきことです。英国が単一の医療制度だから、ほかのどの国に比べて、こんなにも早く(参加者を募る)ことができたのでしょう。
この成功を背景に、ドミノ倒しのように急速にことが運んで行きました。リバプールでは頭頸部がんの臨床試験、ダンディーでは食道がんと胃がんの臨床試験、ロンドンでは肺がんの臨床試験を開始しました。わたしたちは、がんワクチンの臨床試験をできるだけ早く開始したいという人たちを集めてコミュニティをつくったのです。
──いくつかのmRNAベースのがんワクチンが、国内外で臨床試験の後期段階にあります。英国では現在、15のがんワクチン試験が実施されています。最初のmRNAがんワクチン承認はいつ頃になりそうでしょうか?
皮膚がんを切除しても再発しないようにする臨床試験があるのですが、これはすでに終了しています。わたしたちが実施したすべての臨床試験と同じように、今回も大規模な(参加者)募集をして、予定より1年も早く終了できました。通常がんの臨床試験は、信じられないほど長きにわたって実施されるので、これはまったく前代未聞の出来事です。
これからの予定としては、今後6カ月から12カ月かけて治験参加者をモニターし、がんワクチンを接種した人と、していない人の間に差があるかどうかを調べます。年末か2026年の初めまでには結果を出したいと思っています。成功すれば、個別化mRNAワクチンの承認第一号の誕生となるでしょう。実現すれば、コロナmRNAワクチンが最初に認可されてから、わずか5年以内の承認となります。これは、かなりの快挙と言えるでしょう。
(Originally published on wired.com, translated by Miki Anzai, edited by Mamiko Nakano)
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